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turbo717's Activity 

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中津川_玉蔵橋

 玉蔵橋(ぎょくぞうばし)
gyokuzou_bridge

「橋のある風景」


本日は、中津川市木曾川にかかる「玉蔵橋(ぎょうくぞうばし)」から木曽川に降りて、川原でスケッチをしてみました。
橋の道路は、国道257の支線で、城山大橋(現在有料)を使わず、苗木(なえぎ)から下呂方向にいく主要道路です。
上流5kmに落合ダムが、下流15kmに大井ダム-恵那峡があれうせいか、ここは本来の木曽川が流れて見える場所です。
右岸(この橋を渡って向こう側)には、細い道が一本、「瀬戸」まで3kmほど走っています。川沿いのすばらしい景観が楽しめます。
地元の車しか通らないため、早春の散策には最適ではないでしょうか。
この瀬戸が、旬の”竹の子”の産地なのです。!
さらに瀬戸から、落合へ、馬篭へと 足を伸ばしてみてはいかがでしょう。



この橋の上流1kmのところに、旧玉蔵橋の橋脚が残っています。ワンスパンの吊り橋だったのですが、途中に橋脚がある珍しい構造です。上流・下流のダムの影響も受けず発電所の水路に水をとられることもなく太古の木曽の流れをそのまま残す希有の場所です。


下流に見える、もう一つの橋は、北恵那鉄道の”玉蔵橋”です。砂取り場の土手を木曽川をまたいで、苗木城がある「城山」の北側を巻くように、中津川市・福岡へ向かって、山麓を走っていました。ところどころ、石組がのこっていたり、鉄橋が残っています。旧鉄道の跡を辿る、ロマンの旅をしている人達も居ます。


絵は県道-中津川南木曽線および、落合川をまたぐ中央道の橋・落合川橋です。





事典:玉蔵橋(ぎょうくぞうばし)の歴史
玉蔵橋(ぎょうくぞうばし)
渡し舟にのみ頼っていた木曾川に橋がかけられ、飛騨街道に新時代を画したのは、明治三十年一月二十日附の玉蔵橋架橋費収支計算報告書株主名人表が残されているので、明治二十九年のことであろう。有料橋であった。
 木曾川の川巾の最も狭い所を選んで、長さ四十五間巾二間半のトラス式の橋がかけられたのである。工費一万五千円。このあたりの地名が玉蔵であったので命名された。尾州藩木曽材木大川狩要図に、玉蔵盗賊の用心を為すべき所とある。
 この橋の少し下流南岸に、やれとべ観音がある。家出人や、心中の下心ある男女が通りかかると「やれとべ やれとべ」とかけ声をかけてとび込ませ、決して生かして帰さなかった。これは江戸時代に切支丹信者が聖母マリア像を一諸に安置して、同じ観音様と偽称した崇りであるという。
 このやれとべ観音が呼んだか否か、明治の末頃この玉蔵は自殺の名所となり、時折りとび込む人があった。投身者は絶対に助からず、遺体も八百津の辺でやっと上る位であった。
 やがて大正十三年八月には木曾川に鉄橋が架せられ、その上を電車が走るようになったが、旧来の渡しは、岡田式という針金を引き渡して、それに頼る方式には変ったけれども相変らず続いて人を渡した。
 開業当時の北恵那鉄道の電車賃は、苗木迄二十二銭(現在は三十五円)福岡まで四十四銭(六十五円)下付知まで八十四銭(百二十円)である。これに対して渡し舟は一銭で人々に愛用されたのである。「北恵那の電車のない時分にや、飛騨の高山の方へ行く荷を馬車で がらがら引いたもんやなえ。俺は小栗屋の荷を引きよったもんやで、メリケン粉やから粉や砂糖なんぞを積んで加子母まで行って泊り、あけの日、下呂のこっちの竹原でむこうからくる荷物と交換して積み替えて来て、又加子母か付知で泊り、三日がかりで行って来よったねえ。年の暮、正月でもどる勝野の女工さんたを、荷物と一諸に、飛騒の高山まで乗せてったことがあるが、確か七日位かかって十五円もらったかしらん」
 降って昭和十年頃になっても、中津の十日市に出る苗木の子供たちは、電車に乗って小遺い銭を減らしてはと、渡しを利用して歩く者が多かったらしい。設楽氏が引越した昭和十四年にはまだ存続していたという。渡しがその姿を消すのは、支那事変の軍需産業によるインフレで電車利用が普通化してからである。
 六十年の才月は玉蔵の生命を全く使い果たし、新玉蔵橋の雄大な姿を現わさせた。工費一億三七五九万五千円昭和四十一年一月十九日の渡り初めである。渡り初めの主役を勤めた人は、苗木の今井兼之氏親子孫の三代であった。



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